好血圧だより

血圧をネタにする不真面目なブログです

アレの夜 O氏の場合

フィクションですよー

 

その瞬間、O氏は立ち上がり、こぶしを左の掌に激しく打ちつけていた。左翼手ノイジーが最後のフライを捕球した感触を、自分も感じたかったのである。近所迷惑になりそうなほど大きな音をたてて、O氏は二度三度とそれを繰り返した。

テレビの画面では、タイガースの選手たちがマウンド付近に集まって歓喜の輪をつくっていた。やがて監督の胴上げがはじまる。O氏は立ったままそれを放心したように見つめていた。

「勝った。勝った。日本一や。優勝したんや」 

自分に言い聞かせるようにつぶやいてみたが、不思議とO氏の胸中には噴き上げるはずの喜びが湧いてこなかった。部屋をぐるぐる歩き回っては、時折じっと目をつぶってみたり天を仰いでみたりしても、やはり38年ぶりの優勝という実感は湧いてこなかった。

O氏はずいぶん前から、もしタイガースが日本シリーズで優勝したら、いったい自分はどうするだろうかと想像することがよくあった。およそ荒唐無稽な妄想もふくめて、我を忘れて狂喜に身を委ねるのは間違いないと思ってきた。道頓堀には飛び込まないにしても・・・。

あれほど待ち焦がれた、なかば諦めていた瞬間が現実になったというのに、この感情の不発ぶりはどうであろう・・・。「なんでもっと嬉しさバクハツせえへんねん!」 自分の鈍さに苛立った彼は、拳をすでに赤く腫れあがった左の掌に、またしても思いきり打ちつけた。なぜだか、まるで痛みも感じないのであった。 「とことんニブなってしもた」 なにかしら自分に火をつける刺激が必要なのだ、とO氏は思った。それはいったい、何や・・・?

突如、脳裏に閃くものがあった。同時に彼は冷蔵庫に駆け寄り、冷えた缶ビールを何本か取り出した。飲むのではない。それを持ったまま裸になったO氏は風呂場に飛び込んで、缶を開けるやいなや、冷え切った中身を頭からかぶった。

「・・・・・・!!!」

声にならない悲鳴をあげて彼は飛び上がった。それは真冬の滝行に近いことなのを、O氏はようやく悟った。高血圧で循環器に持病がある彼は、あわてて熱いシャワーを浴びてやっと人心地がついたとき、プロ野球のビールかけは常温のもので行うということを思い出したのだった。

「これは祝杯にしたらええんや」 素っ裸のまま、O氏は冷えたビールをごくごくと飲んでみた。熱いシャワーで温まった身体にそれはうまかった。ふだんアルコールを控えているだけに余計にうまく、また余計に酔いがまわった。裸でいるのに、なんだかさらに暖かくなった気がする。 「もっぺん浴びてみよ・・・」 もう一缶をあけ、再び頭から冷たいビールをかけてみる。 「ひいー!」 やはり冷たい。だが、最初のような殺人的冷たさは感じなかった。むしろ心地よくさえ感じられる冷たさで、O氏はまたシャワーを浴びなおしては、冷たいビールを飲んだ。そしてそれを身体にひっかけ、またシャワーを浴びた。左手がじんじんと痺れてくるのも、気持ちよく感じる。あの最後の大飛球を掴んだのは、ひょっとして俺やったかも? 遅れてきた陶酔にようやく包まれ、恍惚とした表情でO氏はへらへらと笑った。

(だいぶ気分よくなってきた・・・。今頃は本物のビールかけも始まっとるやろ。はは、ひと足お先にかんぱーい! 血圧なんか、もうどうでもええわい)

何本目かのビールを飲んで浴びている彼の耳に、六甲おろしが聞こえてきた。何万人もの大観衆の、声の限りに歌う声が。そう、ここは一塁側アルプススタンドや・・・。

「鉄腕強打 幾千度 鍛えてここに甲子園」

O氏もまた声を合わせて力いっぱいに歌う。

「勝利に燃ゆる 栄冠は 輝く我らぞ 阪神タイガース

何万のメガホンが鳴る音が雷鳴のようにとどろき、熱い涙があふれる。もう立っているのか座っているのかも分からない。浴びているのがビールなのかシャワーなのかも分からなかった。しかし、そんなことはもうどうでも良い。38年間追い求めてきたウイニングボールを、確かにつかんだ実感があった。今こそ彼は幸福なのであった。

(これや、これや! ワシが欲しかったんは。これなんや・・・)

 

翌朝、彼の家族は、風呂場で缶ビールを握ったままのO氏の亡き骸を発見した。その顔はこのうえなく幸せそうに微笑んでいたという。

 

 

半分ノンフィクションだったりして

ビール浴びるなら常温で。

ほいで、あまり飲まないでおきましょう。

お大痔に。