ねがはくば花のもとにて春死なむ
その如月の望月のころ
ご存知、西行法師の歌です。できることなら満開の桜の下で春に死にたいもんや、というのであります。小沢変哲さんはこれを踏まえて「願わくばミニの下にて春死なん・・・」と詠みましたが、それはどうでもエエことです。
大岡信 著の『名句 歌ごよみ』春編には、この歌をはじめ、「死」にまつわる歌や俳句が意外に多く採られているのに気付きます。いくつか拾ってみますと・・・
梅でのむ茶屋も有べし死出の山 子葉
灌佛や墓にむかへる独言 其角
なき名きく春や三年の生別 去来
なつかしの濁世の雨や涅槃像 青畝
道のべに阿波の遍路の墓あはれ 虚子
ゆく春や蓬が中の人の骨 星布
春は花が咲き乱れ、いろんな生き物が活動を始め子育てに励む、命かがやく季節のはずなんですが・・・。なぜ、その春に死をテーマにした名句が多いんじゃろ? 「梅でのむ・・・」の子葉の場合は分かります。子葉の本名は大高源吾。赤穂四十七士のひとりで、この句は切腹する直前に詠んだ辞世だからです。
しかし、その他の詠み人は・・・なんでこのウキウキする春に「死」を詠う・・・? 春にはお彼岸があるせいかな、とも思ったんですが、秋にもお彼岸はあるよなあ。お盆も季題としては秋やん。気分としては秋の方が死に近いような気がするんですが、同シリーズの秋編にはその手の句や歌は少ないのです。少数あることはあるんですが、春のにくらべると、出来ばえも少々劣るように思えます。
想像するに、桜が散るさまからヒトの命のはかなさを感じるのかもしれません。満開の花の下でドンチャン騒ぎをしていると、はらはらと花びらが舞うのを見て、意識の水面下で命の輝きからイメージが一周し、卒然として死を思う。そして「あした墓参り行こっと」なんてコトになるんでは・・・。
膝が痛くてロクに散歩にも行けないとなると、こんな陰気な考えが頭をグルグル占領します。連休で旅行するひとは、さぞ陽気に出かけていくんじゃろなあ。ちぇっ。わしゃせいぜい草むしりですワ。
そうそう、連休を被災地でボランティアについやす方々に幸いあれー!
なるべく陽気にお大痔に。